邪馬壱国か邪馬臺国か

倭人伝の邪馬壱国は元々からあった国ではなく、邪馬臺国のヒミコが死んだ後、壱与が立って出来た新しい国である。
つまり、この中心の姫木山のあった隼人町は、元々、ハリ国ではなかったか。
隼人は南九州では「ハイト」と読むが、巴利(ハリ)も南九州語だと「ハイ」と読むという。巴利人とつづれば同じく「ハイト」だ。

巴利(ハリ)国の位置は、加治木氏のいう大口市の針持から隼人町の一帯にあり、この巴利国の一角に新しい邪馬壱国が出来た…、そして、新しい邪馬壱国は北へ移動を始めたー。
こういう流れではなかったか。

鹿児島地図参照
http://hach8.web.fc2.com///jpn-pira/06kagoshima/06kagoshima-himeki.htm
後代、邪馬臺国と云われるが、三世紀の魏志倭人伝に記されているのは、邪馬壱国である。
通説では、その後に書かれた後漢書など、後代の史書に邪馬臺国と記されている所から、魏志の記述誤りだったと解釈している。

加治木説では、この解釈が間違いで、史書の記すように、邪馬臺国と邪馬壱国の二つの邪馬国があったという。
初めに魏へ使者を出したのは邪馬臺国の女王だったが、その女王が死去し、その後、新たに立った壱与の国、これが倭人伝記載の邪馬壱国…、これが加治木説である。

二つの邪馬国
倭人伝の記録を見ていくとー、
女王のいる都へ進んでいく道程で国々が説明される。それが、狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、そして、到着した邪馬壹国の九ヵ国である。
加治木説では、この最後の邪馬壹国が、鹿児島国分姫城の姫木山だと指摘している。
そして、このあと「其餘旁國遠絶、不可得詳」=その余の国は、遠くて険しく詳細を得ることは不可能=と断った上で、二十一の国名が記される。
この十八番目に記されたのが巴利(はり)國なのだが、その十六番目に記されているのが「邪馬国」なのだ。
この「邪馬國」とは何を意味したものなのだろうか?
「その余の国…」として記されたものだから、「女王の邪馬壹国」とは別の「邪馬国」らしい。
あるいはこれが、死去した最初の女王の国=邪馬臺国=のことなのか?

豊の国と伊予の国
記録は過去形のため、最後に存在した女王国の邪馬壱国だけを記録したことになる。
つまり、最初の女王=臺与(トヨ)が亡くなった邪馬臺国は滅亡したのではなくその後も存在した。そして、女王の選出国として邪馬壱国と覇を競いながら北へ、東へと移動拡大していく。
その結果、北九州には邪馬臺国のヒミコ=臺与(トヨ)=豊の国(大分・福岡東部)が記録され、また、四国の西部・愛媛県には、邪馬壱国の壱与(イヨ)=伊予の国(四国)が記録される。

豊の国の別名は、豊日(ホヒ)別国で「天の穂日=国津神の系譜」を示唆する。
古事記で、国津神の仇敵としてやって来たのは天津神であり、それが邪馬壱国であり、壱国の建国者はホホデミ系譜の者と云うことになる。

たしかに、契丹古伝でも、その最後でスサダミコ(=ホホデミ尊)は九州南部・鹿児島県の喜入(きいり)・伊集院あたりに降臨したことになっている。

参照)⇒⑤続/神代の残像第四章蘇える古代都市
http://ikuno.lolipop.jp/piramido/pa-book/

このスサダミコ(=ホホデミ尊)のその後の行方は分かっていない。
はたして、神代からの歴史はつながっていくのだろうかー。
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by nami3291 | 2014-12-17 19:01 | ●神代の歴史